Google DeepMindは9月8日、ヒトゲノム上で起こりうる1塩基の置換すべてについて、その影響をあらかじめ予測したデータベースAlphaGenome Atlasを公開した。収録されている変異は90億通り。データ量は1ペタバイトで、同社によればAlphaFoldのタンパク質構造データベースの約30倍にあたる。
90億という数字は、ヒトゲノムの約30億塩基対のそれぞれについて、元の塩基以外の3通りの置換を数え上げたもの——つまり「起こりうる1文字の書き換え」の全パターンにあたる。各変異に対して、ヒトとマウスの数百種類の細胞・組織における数千種類の分子レベルの影響が予測値として与えられる。遺伝子の発現量やスプライシングといった、DNAの配列変化が実際の細胞の挙動に及ぶ経路を対象にしている。
ゲノム解析で長く難しかったのは、タンパク質を直接コードしない領域にある変異をどう解釈するかという問題だった。病気との関連が統計的に示された変異の大半はこの非コード領域に落ちる。そこは遺伝子をいつ・どれだけ読み出すかを調整する役割を担っているが、1文字の違いがどの遺伝子の挙動を変えるのかを配列だけから読み取るのは難しい。AlphaGenomeが予測の対象にしているのは、まさにこの調節の部分にあたる。
参照しやすくするための仕組みも用意された。AVI(AlphaGenome Variant Impact)スコアは、多数の予測値を1つの数値に集約して変異の影響の大きさを順位付けするもの。加えて、スコアがどの生物学的な要因から来ているかを示す寄与度の情報と、2,500種類以上の反復配列を収めたDNA配列モチーフのデータベースが付属する。
モデルを配るのをやめて、答えを先に計算した
DeepMindが2025年6月に発表した元のAlphaGenomeは、研究者が自分の関心のある変異を入力して予測を得るモデルだった。使うにはAPIを叩くコードを書き、1件ずつ推論を回す必要がある。今回のAtlasは、その推論を先に全ゲノム分やり切って結果を置いた形になる。研究者は自分で計算を回さず、ウェブのポータルから該当する位置を引くだけで済む。
この作り方は、同社がAlphaFoldでたどった道筋と同じだ。AlphaFoldも当初は構造を予測するモデルとして出され、その後に予測済み構造をまとめたデータベースが公開されて利用者の裾野が一気に広がった。ゲノム解析でも、モデルを動かせる計算環境とコードの知識が要件から外れることで、届く相手が変わる。実験系の研究者が手元の候補変異をその場で照会する、という使い方が想定されている。
データの利用にあたっては、Broad Institute、ボストン小児病院、ハーバード大学、メモリアル・スローン・ケタリングがんセンター、マサチューセッツ総合病院、Stowers Institute、カンザス大学医療センター、エクセター大学、およびGREGoRコンソーシアムが協力研究者として名を連ねている。
協力機関にボストン小児病院やマサチューセッツ総合病院、希少疾患のゲノム研究を進めるGREGoRコンソーシアムが並んでいることは、想定される用途をよく表している。原因のわからない遺伝性疾患では、患者のゲノムから見つかった多数の変異のうちどれが症状を引き起こしているのかを絞り込む作業が診断の壁になる。候補ごとの予測値とAVIスコアによる順位付けを即座に引ける状態は、この絞り込みの工程に直接効く。
1ペタバイトという規模は、個々の研究室が手元にコピーを持つ前提のものではない。ポータルやクラウド越しに必要な箇所だけを引く使い方が想定されている。
学術は無償、商用はGoogle Cloud経由
アクセス手段は用途で分かれている。学術研究向けにはウェブポータルが無償で開放され、AlphaGenome APIもGitHub経由で学術利用向けに提供される。商用利用はGoogle Cloudからの提供が予告されている段階で、まだ開いていない。日本の製薬・バイオ企業が業務で使う場合は、このGoogle Cloud側の提供条件を待つことになる。開発環境Google Antigravityからスキルとして呼び出す経路も用意された。
臨床での扱いについては、DeepMindが明確に線を引いている。AlphaGenome Atlasの情報は医療上の助言・診断・治療の代替を意図したものではなく、いかなる臨床用途についても検証・承認を受けていない、と明記されている。つまりここにある90億件は、実験で確かめられた事実ではなく、モデルが出した予測値の集合体だ。ある変異の影響が大きいと出たとしても、それは実験で検証すべき候補の優先順位が上がったという意味にとどまる。90億通りを総当たりで実験することが現実的でない以上、その優先順位付けをどこまで信用できるかが、このデータベースの実用性を決めることになる。



